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東京高等裁判所 昭和59年(行ケ)243号 判決

原告

ユニオン・カーバイド・コーポレーシヨン

被告

特許庁長官

主文

特許庁が昭和57年審判第6020号事件について昭和59年3月30日にした審決を取り消す。

訴訟費用は被告の負担とする。

事実

第1当事者の求めた裁判

1  原告

主文同旨の判決

2  被告

「原告の請求を棄却する。訴訟費用は原告の負担とする。」との判決

第2請求の原因

1  特許庁における手続の経緯

原告は、昭和49年12月10日、名称を「メソ相ピツチから炭素繊維を製造する改良法」とする発明(以下「本願発明」という。)につき、昭和48年特許願第36170号を親出願とし、1973年12月11日アメリカ合衆国においてした特許出願に基づく優先権を主張して追加特許出願(昭和49年特許願第141229号)をし、昭和53年4月5日これを独立の特許出願(昭和53年特許願第39311号)に変更し、昭和55年9月29日出願公告(昭和55年特許出願公告第37611号)されたが、昭和56年10月21日拒絶査定を受けたので、昭和57年4月5日審判を請求し、昭和57年審判第6020号事件として審理された結果、昭和59年3月30日、「本件審判の請求は、成り立たない。」との審決があり、その謄本は昭和59年6月13日原告に送達された。なお、原告のための出訴期間として90日が附加された。

2  本願発明の要旨

(1)  静的条件下に大きい合体した分域を有する均質な凝集メソ相を形成する非チキソトロピー性炭素質メソ相ピツチから炭素質繊維を紡糸し、そのようにして形成した繊維をそれを不融性にするのに十分な時間酸素含有雰囲気中において加熱することによつて熱硬化させ、そして熱硬化繊維を不活性雰囲気中で加熱することによつて炭素化することを包含する高弾性高強度炭素繊維の製造法において、メソ相の形成間に40~90重量%のメソ相含量を生成させるのに十分な時間の間減圧を施こしたメソ相ピツチから炭素質繊維を紡糸することを特徴とする高弾性高強度炭素繊維の製造法。

(2)  静的条件下に大きい合体した分域を有する均質な凝集メソ相を形成する非チキソトロピー性炭素質メソ相ピツチから炭素質繊維を紡糸し、そのようにして形成した繊維をそれを不融性にするのに十分な時間酸素含有雰囲気中において加熱することによつて熱硬化させ、そして熱硬化繊維を不活性雰囲気中において加熱することによつて炭素化することを包含する高弾性高強度炭素繊維の製造法において、メソ相の形成間に40~90重量%のメソ相含量を生成させるのに十分な時間の間ピツチに不活性ガスを通しながら調整したメソ相ピツチから炭素質繊維を紡糸することを特徴とする高弾性高強度炭素繊維の製造法。

3  審決の理由の要点

本願発明の要旨は前項のとおりであると認める。

一方、ドイツ連邦共和国特許出願公開第2315144号明細書(以下「第1引用例」という。)には、静的条件下に大きい合体領域を有する均質なメソ相を形成するメソ相を40~90重量%含有し、かつ非チキントロピー性を持つ炭素質ピツチ(以下「メソ相ピツチ」という。)から炭素質繊維を紡糸し、この繊維を不融解化(本願発明の熱硬化に相当する。)、炭化工程を経て、高モジユラス、高強度の炭素繊維を製造する方法が記載されており、しかも、上記メソ相ピツチを製造するのに炭素質ピツチを不活性雰囲気中で約350℃以上の温度で40~90重量%のメソ相含量を生成させるのに十分な時間熱処理することが示されている(第21頁第15ないし第20行及び実施例参照)。

また、「カーボン」1966年第4巻(同年英国ベルガモンプレス発行)第425ないし第432頁(以下「第2引用例」という。)には、炭素繊維の紡糸に適するピツチ材料を得るために、種々の炭素質ピツチを真空下で熱処理して、低分子量成分を除去する旨のことが記載されている。「石油学会誌」第13巻第6号(昭和45年6月25日社団法人石油学会発行)第18ないし第21頁「炭素繊維とピツチ」と題する論稿(以下「第3引用例」という。)には、炭素繊維の製造に適するピツチ材料を得るのに、石油アスフアルトのような炭素質ピツチを減圧下で熱処理すること(通し頁第440頁第5図参照)、そして、このような処理によつて、分子量の増大、すなわち、高分子量分子の増加と、低分子量成分の除去によるピツチの均質化の促進とを図ること、さらに、このようにして得たピツチは200℃以上の軟化点と、分子の配向性が極めて良いことについても記載されている(通し頁第440頁左欄第11ないし第23行参照)。

そこで、前記本願発明の要旨中の(1)の発明(以下「本願(1)の発明」という。)と第1引用例の記載内容とを比較すると、メソ相ピツチを熱処理により調整するのに際し、前者では、減圧下での処理を行うのに対して、後者には言及されていない点で異なるほか、両者の炭素繊維の製造方法に実質的な差異は認められない。

上記の相違点を検討する。

本願(1)の発明において、ピツチを減圧下で熱処理するとは、本願明細書の記載によると、低分子量成分の除去による均質ピツチの生成とメソ相ピツチへの効率的な転化並びに高分子量分子の量の増加を意図しているものと解される。

そして、炭素繊維の紡糸に適する比較的高軟化点を有しかつ分子配向が極めて良好なピツチ材料を得るために炭素質ピツチを減圧下で熱処理することは第2、第3引用例に記載されている。

ただ、上記両引用例に記載の減圧下での熱処理技術が本願(1)の発明で意図するメソ相ピツチの形成に適用することについての文言の記載がなく、したがつて、メソ相ピツチへの効率的な転化を図れることも明らかでないが、本願(1)の発明における前記の他の意図については記載されている。

ところで、一般に平衡反応において、反応の副成分などを取り除くことによって反応が効率的に進行することは化学常識であり、本願(1)の発明に限らず両引用例にも当然に起こり得るものであるから、両者の意図する目的に差異はない。そして、特に第3引用例の記載をみると、減圧下での熱処理により分子配向性が極めて良いピツチが得られることも示されているから、構成分子が配向しているメソ相ピツチの形成への適用は当業者には当然に考えつき得る程度のことであるといえる。

以上のとおり、本願(1)の発明は上記第1ないし第3引用例の記載内容から当業者が容易に発明することができたものであるから、本願発明は特許法第29条第2項の規定により特許を受けることができない。

4  審決の取消事由

1 審決における第1ないし第3引用例の記載内容の認定、並びに、本願(1)の発明と第1引用例記載の発明との間の一致点及び相違点に関する認定は認める。

第1引用例記載の発明は、メソ相ピツチ(異方性ピツチ)を得て、これを紡糸し炭素繊維とすることに関するものであるのに対し、第2、第3引用例記載の技術は、等方性ピツチ(非メソ相ピツチ)を得てこれを紡糸するものであり、第1引用例記載の発明と第2、第3引用例記載の技術とは、技術分野を異にし、かつ目的ピツチ、処理条件等において互いに関連のない技術である。したがつて、第2、第3引用例記載の技術を第1引用例記載の発明に適用して本願(1)の発明のように構成することは、当業者が容易に想到し得たことではない。よつて、前記相違点についてした審決の判断は誤りであり、ひいて、審決は本願発明の進歩性を誤つて否定したものであるから、違法であつて、取り消されるべきである。

2 本願(1)の発明における減圧処理はメソ相ピツチの生成反応を促進させ、かつ得られるピツチの流動性及び紡糸性を改良する目的で行うものである。

所定のメソ相含量を有するメソ相ピツチの生成は、調整温度を上げるにつれて反応時間が短縮されるものの、得られるピツチの流動学的性質は悪化する。これは、高められた温度で加熱することにより、ピツチの非メソ相部分における低分子量分子(すなわち、分解生成物)の量の増加をもたらし、同時に、ピツチのメソ相部分における高分子量分子(すなわち、重合生成物)の量の増加をももたらし、この広い分子量分布がピツチの流動学的性質に悪影響を及ぼすためである。

好ましい流動学的性質を有するピツチを得るには、比較的温和な温度で長い時間かけて反応を行わせるのが好ましいが、この方法は経済的でなく、他方、反応温度を高めれば、一般的にメソ相部分の収率は増大するものの、前述のとおりピツチの流動学的性質は悪化するという相反する問題があつた。

本願(1)の発明においては、これらの問題点を解決するため、その要旨とする減圧処理を行うことにより、

①  所定温度において、右減圧処理をしない場合に通常必要とされる速度の2倍以上の速度でメソ相を調製することができる、

②  得られたメソ相ピツチは、メソ相及び非メソ相部分の数平均分子量分布が小さく、したがつて、改良された流動学的及び紡糸特性を有する

という顕著な作用効果を奏する。

3 ところで、メソ相ピツチは、液晶状態にあつて光学的異方性を示す相が40~90重量%と多量に含まれたピツチのことであり、通常約300℃程度の軟化点を有し、軟化点以上での流動性が高く、易紡糸性であり、炭化処理を得た紡糸繊維は、極めて高強度を有する。そして、メソ相ピツチの製造には、反応が必要である。このために、原料ピツチは、不活性雰囲気中で、高温度で長時間処理する必要がある。一方、等方性ピツチは、非晶質状態にある相が多量に含まれた、メソ相がごく少量しかないピツチのことであり、通常約100℃程度の軟化点を有し、紡糸性が低く、炭化処理を経た紡糸繊維は低強度である。

このように、等方性ピツチとメソ相ピツチとは性状が異なり、炭素繊維製造用原料としては、別個の材料として位置づけられている。

4 第1引用例記載の発明は、原料の等方性ピツチを高温処理して、メソ相を40~90重量%生成するメソ相生成反応工程ないしメソ相ピツチ製造法に関するものであり、原料ピツチを350~450℃で処理し、例えば石油ピツチを原料ピツチとする場合には、350℃では約1週間以上、450℃では約30分以上処理してメソ相とする。

5 (1) これに対し、第2、第3引用例記載の技術は、原料の等方性ピツチから低分子量物質を単に追い出して、等方性ピツチの均質性を高めようとする純化ないし精製工程に関するものである。

(2) まず、第2引用例記載の技術は、明らかに等方性ピツチを開示している。すなわち、第2引用例の427頁「2.3.2.」の項第7ないし第9行には、「ピツチ500gを窒素下380℃において60分間乾留し、次いで減圧において270℃で60分間熱処理した」と記載されている(右の乾留は、石油アスフアルトの場合について記載のある「2.3.1の項における処理条件と同じく、窒素ガスを溶融ピツチに通してバブリングさせて行つたものと考えられる。)。そして、異なる温度を用いてメソ相を製造するのに要する時間を実験により求め、得られた一連のデータを基にして描かれたアーウイン・シー・ルーイスの宣誓供述書(甲第6号証)添付のグラフを参照すると、乾留の不存在下でも、380℃において約40重量%のメソ相を得るのに、少なくとも29時間を必要とすることが分かり、380℃における1時間の加熱で生成するメソ相の量はごくわずかである。このことからすると、第2引用例記載の技術において、乾留の場合で380℃を60分間使用する加熱処理では、せいぜい2、3重量%のメソ相を生成するにすぎず、10重量%よりも少ないことが確実である。また、続く270℃における数時間の加熱処理は、ごく微量のメソ相を生成するにすぎない。

このように第2引用例記載の技術における熱処理で生成されるピツチは、メソ相がこく少量しか生成しないから、該技術は、非晶質相がほとんどである等方性ピツチを提供するにすぎない。

(3) 次に、第3引用例では、第19頁右欄の「4ピツチ系炭素繊維の製法」の項の第1、第2行に、「もつとも肝心な点は、適性のある原料ピツチの調製である。」と記載され、また、第20頁の図5において「原料ピツチの調製法」が示され、そこで、石油アスフアルトについては、N2通気下での380℃における1時間の乾留と減圧下での300℃における加熱との組合せが開示され、コールタールピツチについては、クロロホルムで抽出した後に減圧下において300℃で加熱することが開示されている。

このようにして、同引用例記載の技術では、原料ピツチから低分子成分を除去してピツチの均質化を促進しているのである。つまり、第3引用例記載の技術も、等方性ピツチからの炭素繊維の製造に関するものであり、右ピツチの軟化点を上昇させるために、単に物理的な予備処理を行つているにすぎない。同引用例では、メソ相ピツチの生成について何ら触れるところがなく、また、そこに示されている加熱条件下では、メソ相が少しも生成されないことが明らかである。

(4) 以上のとおり、第2、第3引用例記載の技術における熱処理はメソ相生成反応を意図したものではなく、加熱により原料ピツチを流動化し、低分子成分の揮発除去により、元々から存在する等方性ピツチを濃縮し、均質化することを意図したにすぎないものである。

(5) 以上述べたところからすると、第2、第3引用例記載の技術の一部である減圧処理が、第1引用例記載の発明におけるメソ相ピツチを用いた炭素繊維のメソ相生成工程に妥当するとの知見は容易には得られないはずである。

さらにまた、第1引用例には、ピツチを処理するに際し、「これらピツチを静的条件下で約350~450℃でしかも一定の温度かあるいは徐々に温度を上げて加熱すると、小さな不溶性液体球がピツチ中に現れ始め、加熱し続けると、寸法が徐々に増大する。」(第18頁第2ないし第7行)と記載されている。

そして、同引用例には、実施例1について、「このようにしてつくつたピツチの一部を押出しシリンダーに添加し、この押出し機を窒素雰囲気下で2時間にわたつて400℃に加熱した。次にピツチの温度を約3.5時間にわたつて400℃から436℃に上げた。」(第67頁下から第7ないし第3行)と記載されており、かかる押出し機におけるピツチの加熱も、静的条件下で行われることが理解できる。

したがつて、当業者は、第1引用例中の右記載から、ピツチを処理するための加熱を静的条件下で行わなければ、所望の紡糸性を有するピツチは得られないと考えるものであつて、わざわざ減圧を施したり、ピツチ中に不活性ガスを通して静的条件を乱すような処理を行わないであろうし、このような処理により、処理時間が著しく短縮され、かつ紡糸性に優れたピツチが得られることには想到し得ないものというべきである。

第3請求の原因に対する認否及び被告の主張

1  請求の原因1ないし3の事実は認める。

2  同4は争う。審決の認定、判断は正当であり、審決には原告主張の違法はない。

1 (1) 天然及び合成ピツチの大部分は芳香族基ピツチといわれる。芳香族基ピツチは、その有機化合物を構成する分子が、分子量数100以下と比較的小さく、かつ相互作用が弱いので、本来等方性であること、しかし、これらの芳香族基ピツチを静的条件下で約350~450℃で加熱し続けると、小さな不溶性液体球が発生し、その合体段階を経て、最適異方性、不融解性物質を含有するメソ相ピツチが形成されることは、従来よく知られていることである。以上のことから、

①  芳香族基ピツチを加熱処理してメソ相ピツチを形成する過程では、等方性である芳香族基ピツチが異方性化されること、

②  右の異方性化とは、分子量を大きくすること、あるいは、分子の相互作用を強くすることであることは、当業者にとつて直ちに理解できることであり、このことから、等方性の芳香族基ピツチを異方性化する手段、すなわち、分子量を大きくする手段、あるいは、分子の相互作用を強くする手段として知られているものを、メソ相ピツチの形成過程に取り入れれば、メソ相ピツチの形成が有利に行えるであろうことは、当然に予想できる。

(2) 第3引用例の第20頁左欄本文第4ないし第11行及び同頁の第5図には、各種原料から炭素繊維用原料としての特性を持つピツチをつくる場合の一例として、コールタールピツチを減圧下で300℃で加熱処理してコール系原料とすること、及び、その処理の基本的なねらいが、遊離炭素分を増加させることなく、分子量を増加させることであることについて記載されている。

右の記載は、コールタールピツチの加熱処理中に減圧処理を施すことは、コールタールピツチの構成分子の分子量の増加手段であることを意味している。

(3) 右のとおり、第3引用例には、炭素繊維製造用の原料ピツチの調製において、ピツチの構成分子の分子量を増加させる手段が記載されており、一方、第1引用例記載の発明における加熱処理も、前記(1)で述べたところからすると、ピツチの構成分子の分子量を増大させる手段であるから、第3引用例記載の技術と第1引用例記載の発明は共通する技術である。

(4) したがつて、コールタールピツチ構成分子の分子量の増大手段である、加熱処理中に減圧処理を施すという第3引用例に記載された技術を、第1引用例記載の発明におけるメソ相ピツチの形成手段に転用することは、当業者にとつて容易に実施できたことである。

(5) 原告は、第1引用例記載の発明における加熱処理は、静的条件下で行われているものであるから、静的条件下以外での加熱処理は当業者にとつて容易に想到し得たことではないと主張するが、当業者が公知の技術を改良する場合には、すべての技術要素の変更の可能性を検討することが常であるので、原告の主張には、根拠がない。

2 また、第3引用例記載の技術における、減圧下で加熱する手段が、第1引用例記載の発明におけるメソ相ピツチの形成手段と組み合わされたとき、それぞれの手段による作用効果が相加的に発揮されて、メソ相ピツチの形成が促進されるという作用効果が奏せられるということは、当然予測されたところであり、本願(1)の発明の作用効果も、この予測されたところを越えるものではない。

第4証拠関係

証拠関係は、本件訴訟記録中の書証目録記載のとおりであるから、ここにこれを引用する。

理由

1  請求の原因1(特許庁における手続の経緯)、2(本願発明の要旨)及び3(審決の理由の要点)の事実は、当事者間に争いがない。

2  そこで、原告主張の審決の取消事由の存否について判断する。

1 成立に争いのない甲第2号証(本願発明の出願公告公報)によれば、

(1)  本願(1)の発明は、液晶又はいわゆるメソ相状態にあらかじめ一部分転移させたピツチから炭素繊維を製造する改良法に関するものである(出願公告公報の発明の詳細な説明の項第2欄第16ないし第18行)こと、

(2)  熱処理によつて、高い弾性ヤング率及び高い引張り強度を有する炭素繊維に転化できる繊維に紡糸するには、約40~90重量%のメソ相含量を有する炭素質ピツチが好適である(同第4欄第33ないし第36行)ところ、右メソ相を生成するのに一般に必要とされる温度350℃では、約40重量%のメソ相含量を生成するために少なくとも1週間の加熱が通常必要であり、また、約400~450℃の温度では、メソ相への転化は急速に進行し、通常、約1~40時間内に50重量%のメソ相含量のものが生成するので、このような温度が一般に用いられている(同第5欄第42行ないし第6欄第6行)こと、

(3)  本願(1)の発明は、所定のメソ相含量を有するメソ相ピツチを生成するのに必要とされる時間は、調製温度が上がるにつれて短くなるが、高められた温度での加熱は、ピツチのメソ相及び非メソ相部分の両方の分子量分布を変えることによつて、ピツチの流動学的性質に悪影響を及ぼすものであり(同第6欄第10ないし第15行)、すなわち、高められた温度において比較的短時間で調製された所定のメソ相含量を有するメソ相ピツチは、適度な温度において長時間にわたつて調製された同様のメソ相含量のメソ相ピツチよりも広い分子量分布を有し、この広い分子量分布は、ピツチの流動性及び紡糸性に悪影響を及ぼすものである(同第6欄第20ないし第27行)との知見に基づき、好ましい流動学的性質をピツチに付与する比較的適度な製造温度において、メソ相ピツチを生成するのに必要な時間を短縮するための手段を提供することを技術的課題とした(同第6欄第41ないし末行)こと、

(4)  そして、本願(1)の発明は、その技術的課題を達成するため、本願(1)の発明の要旨にあるとおり、メソ相の形成間に40~90重量%のメソ相含量を生成させるのに十分な時間の間減圧を施すという構成を採択したものであり、それによつて、40~90重量%のメソ相含量を有するメソ相ピツチは、所定温度において、減圧処理をしない場合に通常必要とされる速度の2倍以上で、すなわち、メソ相を減圧をしない場合に生成するのに通常必要とされる時間の半分以下程度の時間で調製することができ(同第7欄第9ないし第15行、同第9欄第4ないし第11行、同第23欄第10ないし第16行)、また、右時間の短縮化のほかに、ピツチのメソ相及び非メソ相部分の数平均分子量分布が小さいメソ相ピツチが得られ、この狭い分子量分布によつて改善された流動学的及び紡糸特性を有するメソ相ピツチが得られる(同第9欄第33行ないし第11欄第6行、同第8欄第35ないし第41行)という作用効果を奏するものであることが認められる。

2 これに対し、第1引用例に、審決認定の事項、すなわち、静的条件下に大きい合体領域を有する均質なメソ相を形成するメソ相を40~90重量%含有し、かつ非チキソトロピー性を持つ炭素質ピツチ(メソ相ピツチ)から炭素繊維を紡糸し、この繊維を不融解化、炭化工程を経て、高モジユラス、高強度の炭素繊維を製造する方法が記載されており、しかも、上記メソ相ピツチを製造するのに炭素質ピツチを不活性雰囲気中で約350℃以上の温度で40~90重量%のメソ相含量を生成するに十分な時間熱処理する旨が記載されていることは、原告においても認めるところである。

3  そして、審決認定のとおり、本願(1)発明と第1引用例記載の発明とは、メソ相ピツチを熱処理により調製するに際し、前者では減圧下での処理を行うのに対し、第1引用例にはこのことについて言及されていない点で相違するほか、両者の炭素繊維の製造方法に実質的な差異は認められないことは当事者間に争いがない。そこで、以下に右相違点に対する審決の判断の当否について審究することとし、まず、第2引用例の技術内容を検討する。

(1)  第2引用例に、審決認定の事項、すなわち、炭素繊維の紡糸に適するピツチ材料を得るために、種々の炭素質ピツチを真空下で熱処理して、低分子量成分を除去する旨の記載があることは、原告においても認めるところである。

(2)  また、成立に争いのない甲第4号証(第2引用例)によると、第2引用例には、

「ブローナスフアルト、コールタールピツチ及びそれらの混合物を、それぞれ380℃において1時間乾留した。次いで、残留生成物を減圧下で、270~340℃の温度で熱処理し」(第425頁の要約の項第3ないし第5行)との記載、

「原料アスフアルト500gをガラス製レトルトに装入し、溶融アスフアルトに窒素ガスを2l/分の流量でバブリングして380℃で60分間乾留して残留生成物を残した(収率71%)。次に残留生成物15gを熱処理し、第1図に示す装置を用い、280~380℃において、60~180分間減圧下(10-3mmHg)で低分子量成分を除去した(収率49.3~352%)。」(第426頁左欄下から第10ないし末行)との記載、

「ピツチ500gを窒素下380℃において60分間乾留し、次いで減圧下において270℃で60分間熱処理した。」(第427頁左欄下から第11ないし第9行)との記載、

「18及び19番の混合物から窒素下380℃において60分間乾留して硬質残留物が得られた(中略)石灰様硬質残留物を減圧下300℃において2時間熱処理し、」(第427頁右欄下から第15行ないし第428頁左欄下から第13行)との記載があることが認められる。

(3)  第2引用例の右各記載を総合すると、第2引用例記載の技術は、炭素質ピツチを380℃で1時間乾留し、次いで、残留生成物を減圧の下、270~380℃の温度で1~3時間熱処理するものであり、この処理によつて、右残留生成物中の低分子量成分を除去するものであることが認められる。

(4)  ところで、成立に争いのない甲第3号証(第1引用例)によると、第1引用例には、炭素質ピツチを熱処理してメソ相ピツチを生成させることについて、「メソ相の生成に一般に必要とされる最小温度の350℃では、約40%のメソ相含量を生成するには通常少なくとも1週間の加熱が必要である。約400~450℃の温度では、メソ相への変換は急速に進み、このような温度では約1~40時間内で通常50%メソ相含量を生成することができる。」(第22頁第1ないし第8行)との記載、「前駆物質石油ピツチを窒素雰囲気下で約400℃で約32時間加熱することによつてメソ相ピツチをつくつた。加熱後、ピツチは49.3重量%のキノリン不溶解性物を含有し、これは、ピツチのメソ相含量が50%に近いことを示した。」(第71頁第11ないし第16行)との記載があることが認められる。

右記載によれば、メソ相の生成に必要とされる最小温度は350℃であり、この温度での熱処理を行う場合、約40%のメソ相を生成させるには少なくとも1週間の加熱を必要とし、400~450℃の温度の場合は、約1~40時間で通常50%のメソ相が生成されるものであり、具体的には、石油ピツチの場合、約400℃で約32時間加熱処理して、50%に近いメソ相が生成されるものと認められる。

(5)  さらに、成立に争いのない甲第6号証(アーウイン・シー・ルーイスの宣誓供述書)によれば、同宣誓供述書に添付の「証拠A」(350~480℃の温度において、生成するメソ相%を時間の関数としてプロツトした「メソ相生成の速度論」という表題のグラフ)は、「証拠B」(「カーボン」第16巻第417ないし第423頁の「炭化の速度論のESR研究」という表題の論稿)のうち、「3.3メソ相生成段階・速度論及びESR結果」の項及びFig.7,8に記載の手順に基づいてシンガー博士が作成したものであることが認められるところ、右「証拠A」のグラフによると、石油ピツチから40重量%のメソ相含量のメソ相ピツチを形成させるためには、380℃で窒素雰囲気下で熱処理する場合、少なくとも29時間を必要とすることが認められる。

(6)  右(4)、(5)で認定したところによれば、炭素質ピツチを380℃で1時間乾留し、次いで、減圧下で270~380℃で1~3時間熱処理するという第2引用例記載の技術においては、炭素質ピツチの熱処理時間は、乾留処理と減圧処理とを加算しても、せいぜい4時間ないしはそれ以下であり、また、加熱温度も、380℃ないしそれ以下であるから、第2引用例記載の技術における減圧下での熱処理によつて調製した炭素繊維用原料ピツチ中には、40重量%までのメソ相ピツチが形成されておらず、メソ相ピツチが形成されているとしてもごく微量のものが形成されていると推認される。

4  (1) 次に、第3引用例に、審決が認定した事項、すなわち、炭素繊維の製造に適するピツチ材料を得るのに、石油アスフアルトのような炭素質ピツチを減圧下で熱処理すること、そして、この熱処理によつて、分子量の増大、つまり、高分子量分子の増加と、低分子量成分の除去によるピツチの均質化の促進とを図ること、さらに、このようにして得たピツチは、200℃以上の軟化点を有し、分子の配向性が極めて良いことについての記載があることは、原告も認めるところである。

(2) また、成立に争いのない甲第5号証の1ないし3(第3引用例)によると、第3引用例には、炭素繊維用原料としての特性を持つピツチを製造する例として、第20頁の図5に「原料ピツチの調製法」として、石油アスフアルトを、N2(窒素)を吹き込みながら380℃で1時間乾留し、次いで、乾留残を減圧下で300℃に加熱してアスフアルト系原料を製造すること、及び、コールタールピツチをクロロフオルムで抽出し、その可溶分にテトラメチルチウラムジサルフアイト5%を添加して200℃で加熱した後、減圧下で300℃に加熱してコール系原料を製造することの記載があることが認められる。

(3) 右記載によると、第3引用例に記載のアスフアルト系原料及びコール系原料は、380℃で1時間乾留した後、減圧下で300℃で熱処理されたもの、及び、200℃で加熱し次いで減圧下で300℃に加熱したにすぎないものであるから、右処理によつて調製した炭素繊維用原料としての特性を持つピツチは、第2引用例に記載の熱処理によつて調製された炭素繊維用原料ピツチと同様、40重量%までのメソ相ピッチが形成されておらず、メソ相ピツチが形成されているとしてもごく微量のものが形成されていると推認される。

5  (1) 以上のとおり、第2、第3引用例記載の技術における、減圧下での熱処理によつて得られる炭素繊維用原料ピツチは、いずれも、40~90重量%のメソ相含量を有するメソ相ピツチではなく、メソ相をほとんど含まない等方性ピツチであると認められる。すなわち、第2、第3引用例記載の技術は、炭素繊維の紡糸に適する等方性のピツチを調製する技術であつて、炭素繊維の紡糸に適する比較的高軟化点を有し、かつ、分子配向が極めて良好な等方性ピツチを得るため、炭素質ピツチを減圧下で熱処理するものである。

これに対し、本願(1)の発明と第1引用例記載の発明は、40~90重量%のメソ相含量を有するメソ相ピツチを生成させる、高弾性高強度の炭素繊維を製造するための技術に関するものであり、特に、前掲甲第2号証によると、本願(1)の発明は、炭素質ピツチを減圧下で熱処理することによつて、望ましくない揮発性低分子量成分を除去し、ピツチのメソ相への転化を促進させる技術に関するものである(本件出願公告公報の発明の詳細な説明の項第7欄第5ないし第9行、第9欄第1ないし第3行)ことが認められる。

このように、第2、第3引用例記載の技術と本願(1)の発明及び第1引用例記載の発明とは、炭素繊維を製造するための原料ピツチの調製という上位の概念で一致するということはできても、右原料ピツチそれ自体は、明らかに相違するものであるから、別異の技術に関するものというべきである。

(2) そうすると、メソ相ピツチの生成と異なる等方性ピツチの調整のための減圧下における熱処理についてのみ開示されていて、本願(1)の発明におけるメソ相ピツチを生成させるための減圧処理について開示されていない第2、第3引用例記載の技術を、第1引用例記載の発明における、メソ相ピツチを生成させる熱処理手段に適用して、本願(1)発明の構成を採択することは、当業者にとつて容易に考えられる程度のものであるということはできない。そして、本願(1)の発明は、前記1で判示した作用効果を奏するものであり、この作用効果は、予測できないものというべきである。

(3) 被告は、第1引用例記載の発明における加熱処理は、ピツチの構成分子量を増大させる手段であるところ、第3引用例に記載のコールタールピツチの減圧下での加熱処理の基本的ねらいは分子量の増大にあるから、第1引用例記載の発明と第3引用例記載の技術とは、ピツチの構成分子量を増大させる手段であるという点で共通する技術であり、したがつて、第3引用例に記載のコールタールピツチ構成分子の分子量の増大手段である減圧処理を、第1引用例記載の発明におけるメソ相形成手段に適用することは、当業者にとつて容易に実施できることであり、それにより、メソ相ピツチの形成が促進されるという作用効果は、当然予測できることであると主張する。

しかし、被告の右主張における技術の共通性なるものは、第1引用例記載の発明と第3引用例の技術の加熱処理に基づく作用の一面のみを捉えるものにすぎず、さきにみたような、両者の技術の差異に何ら影響を及ぼすものではない。

6  以上判示したところによると、審決は、本願(1)の発明と第1引用例記載の発明との間の相違点の判断を誤り、ひいて、本願(1)の発明は、第1ないし第3引用例の記載内容から、当業者が容易に発明することができたものであるとして、誤つて本願(1)の発明の進歩性を否定し、本件出願を拒絶すべきものとしたものであるから、違法であつて、取り消されるべきである。

3 よつて、審決の違法を理由にその取消しを求める原告の本訴請求は正当としてこれを認容することとし、訴訟費用の負担について行政事件訴訟法第7条、民事訴訟法第89条の各規定を適用して主文のとおり判決する。

(蕪山嚴 竹田稔 塩月秀平)

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